~ 導入:その「反省文」に何の意味があるのか ~
四半期に一度の「標的型攻撃メール訓練」。
あなたの会社でも行われているでしょう。
従業員に偽のフィッシングメールを送りつけ、リンクをクリックした人を特定し、上司経由で注意する。
そして、クリックしてしまった鈴木さんは、青い顔をしてこう書かされます。
「今後は差出人をよく確認し、怪しいメールは開きません」
はっきり言います。
この儀式には、百害あって一利なしです。
なぜなら、人間は機械ではないからです。「次は気をつける」という精神論でヒューマンエラーが防げるなら、この世から交通事故はなくなっているはずです。
ZTRラボは提言します。
従業員を「罠」にかけて委縮させる教育はやめましょう。
その代わりに、「従業員がどんなにリンクを踏んでも、会社が危険に晒されない仕組み」を作りましょう。
それが、ゼロトラスト(性悪説)に基づいた、正しいエンジニアリングです。
Phase 1:「ヒューマン・ファイアウォール」という幻想

多くの経営層やセキュリティ担当者は、「社員教育」で防御力を上げようとします。これを「ヒューマン・ファイアウォール」と呼ぶこともあります。
しかし、科学的に見て、これは極めて脆弱な壁です。
エビングハウスの忘却曲線
心理学の実験によれば、人間は学んだことを1時間後には56%、1週間後には77%忘れます。
年に数回の訓練で得た「警戒心」など、次の週の忙しい月曜日の朝には消え失せています。
攻撃者は「脳」をハックする
近年のフィッシングメールは、「緊急の請求書」「給与振込の変更」「上司からの呼び出し」など、人間の「焦り」や「恐怖」を巧みに刺激します。
脳の扁桃体が反応した瞬間、論理的思考は停止します。これを「気合」で防ぐのは、プロの詐欺師に素手で立ち向かうようなものです。
「報告しない文化」の醸成
最も怖い副作用はこれです。
ミスをした人を「犯人扱い」して吊るし上げると、従業員はどうするか?
「次からは、クリックしても黙っていよう」と考えるようになります。
これはセキュリティ対応において最悪の事態(検知の遅れ)を招きます。
Phase 2:「踏む前提」で設計するゼロトラスト

ゼロトラストの基本原則は「何も信頼しない(Verify Explicitly)」です。
これはシステムだけでなく、「自社の社員の注意力も信頼しない」ことを意味します。
「踏まないようにする」のではなく、「踏んでも死なないようにする」。
そのための具体的な技術(武器)は、すでに存在しています。
1. FIDO2 / ハードウェアキー(最強の盾)
フィッシングの最大の目的は「ID/パスワードの窃取」です。
しかし、YubiKeyなどの物理キーを使ったFIDO2認証を導入すれば、偽サイトで認証することは物理的に不可能です(ドメインが違うとキーが反応しないため)。
これさえあれば、社員がどんなに偽サイトにパスワードを入れても、アカウントは乗っ取られません。
2. ブラウザ分離(RBI: Remote Browser Isolation)
メールのリンクをクリックした際、手元のPCではなく、クラウド上の「使い捨てコンテナ」の中でWebページを開く技術です。
画面の「画像データ」だけが転送されるため、もしリンク先でマルウェアがダウンロードされても、被害を受けるのはクラウド上のコンテナだけ。
手元のPCは無傷です。
3. マクロの無効化とEDR
添付ファイル攻撃の9割は、Officeのマクロです。
情シス側でグループポリシー(GPO)を使い、インターネットからダウンロードしたファイルのマクロを強制的に無効化すれば、教育などしなくても実行できません。
Phase 3:教育予算を削り、道具を買え

「でも、FIDO2やRBIは高いじゃないか」
そう思われるかもしれません。しかし、計算してみてください。
全社員の訓練にかかる時間コスト、教材費、そして「事故が起きた時の対応コスト(数千万円~億円)」を。
精神論にお金を使うのは浪費ですが、仕組みにお金を使うのは「投資」です。
明日、社長にこう提案してみてください。

社員を怒るのをやめて、そのエネルギーと予算で『怒らなくて済む道具』を買いませんか?
まとめ:鈴木さんを責めるな、設計を責めろ
誰かがフィッシングメールを開いてマルウェアに感染した時。
悪いのはクリックした鈴木さんでも、教育不足の佐藤さんでもありません。
「ワンクリックで全社が危険に晒される脆弱なアーキテクチャ」を放置していた、情シス(私たち)の責任です。
厳しい言い方ですが、これがプロの考え方です。
人間という「バグだらけのOS」をアップデートしようとするのは諦めてください。
そのバグがあっても動じない、堅牢なシステムを築くのが、あなたの仕事です。
🛡️ 追伸:技術で解決するための「地図」はありますか?
「精神論がダメなのは分かった。でも、どこから手をつければいい?」
そう迷うなら、まずは全体像(アーキテクチャ)を見直す必要があります。
- あるべき姿を知るなら:
ゼロトラストの設計思想を、物語を通じて体感できる
👉【物語連載】Vol.3 設計編:「なんとなく」を許さないアーキテクチャ
を読んでください。 - 文化を変えるなら:
技術を入れた後、どうやって「報告する文化」を作るか。その答えは
👉【物語連載】Vol.6 文化編:ゼロトラストは「終わらないプロジェクト」
にあります。

